※この文章は、ある自己啓発セミナーへのお誘いをきっかけに揺れた内面を記録したものです。
誰かを批判したり、何かを否定したいのではなく、
「変わらなきゃ」と思い続けてきた私の、そのときの“正直な温度”を残しておきたくて書きました。
言葉にならなかった思いが、朧のままでも“在った”と感じられたらと思います。
小さい頃のことを、ふと思い出す。
学校の成績は悪くなかったけど、授業中に手を挙げて発言することはほとんどなかった。
わかっていても、「間違えたらどうしよう」とか、「空気を読んで黙っていたほうがいいかも」とか、
そんなことばかり考えていた気がする。
正解を言えれば認められる。
でもその“正解”って、誰のものだったんだろう。
最近、参加した自己啓発系のセミナーでも、似たような場面があった。
まず手を挙げた人が、賞賛され、承認される。
その空気を見て、私は少しだけ後ずさる。
この場では、発言しないことで“最初の敗者”のような印象を持たれるのかもしれない。
でも、本当にそうだろうか?
手を挙げなかった理由には、理由がある。
私には私なりの時間の流れと、生きてきた背景がある。
セミナーという空間では、
発言する人が目立ち、
お金を出し続けることで“市民権”が得られるような仕組みになっていることもある。
最初はフロント講座、
そこからミドル・バックエンド・ファイナルへと続く段階。
熱量や参加回数、お金の投入具合で、
その人の“やる気”や“信頼度”が測られるような雰囲気さえある。
もちろん、行動すれば成果は出る。
でも、その“成果”のために、
それまで大切にしてきた自尊心や価値観を塗り替えてしまっていいのだろうか。
ふと思う。
人には、「声を出す自由」と同じだけ、
「声を出さない尊厳」もあるんじゃないか、と。
セミナーの中で、
学校の教室の中で、
私たちはいつからか“良い子”になるために声を選んでいた。
元気で手を挙げる人、
お金を出して動きの早い人、
人気者で魅力的な人たち。
確かにそういう人は輝いて見える。
でも、私はというと、
子どもの頃から大して変わらない。
発言は少なく、観察して、自分のペースを守る。
それが、ずっと変わらない私の姿だ。
変われないことを、
いつの間にか“悪”のように感じていたけど。
いま思えば、
その静けさの中にも、ちゃんと私なりの誇りがあったのかもしれない。
沈黙は、私が私であるための祈りだったのかもしれない。
声を出さなかった日のことを、
もう恥じる必要はない。
誰にも呼ばれなくても、
発言しなくても、
私は、ちゃんとそこに“在った”のだから。
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