主導権のない才能と、在ることで開かれる光
才能とは、誰のものなのだろうか?
この問いが、ふと胸の内に浮かんだ。
私の中に確かに在るはずの力。
けれど、それはいつも“誰かの問い”や“場の空気”が整わなければ動き出さない。
まるで、自分のタイミングでは決して抜けない剣のように──
鞘の中で眠ったまま、光ることを待っている。
才能を発動させる“スイッチ”は、いったいどこにあるのだろう。
誰が押せるのだろう。
そして、私自身にその決定権はあるのだろうか。
いや、たぶんこれまでの私は、
その“スイッチ”が自分以外の誰かにあると信じ込んでいた。
主導権を、他者に預けたまま生きていたのかもしれない。
その始まりは、きっと幼い頃の体験にある。
怖くて、傷ついて、言葉も奪われたような記憶。
そこで私は、**「決定してはいけない」**という感覚を学んだのかもしれない。
だから、力を発揮するチャンネルの主導権はいつも他人にあるような気がして、
私はただ、呼ばれるのを待つしかなかった。
あなたは、あなた自身の人生の“主”になれていますか?
それとも、誰かの期待や記憶の中で、
まだ「許可」を待っているところがありませんか?
今もなお、私の中の才能は、
トラウマの毒に触れると、鞘の中に閉じこもってしまう。
けれど、私は知っている。
光があふれる世界では、きっと私自身の決定が優先されるはずだということを。
そして、たとえ今はそれができなくても──
この“在る”という状態を整えていくことで、
少しずつその毒は解かれ、
剣は自然と鞘から抜けていくかもしれない。
私は今、人生を操作しようとは思わない。
ただ、才能が錆びつかないように、
静かに空間を整え、在り方を見つめている。
毒にまみれた才能を、
少しだけでも“使いこなす”機会を与えてくれる空間を、
自らの内と外に用意しながら──
私が私の“主”となるために。
コメント