使いたいときに、使えない力のこと。
雨が降りそうな空を見上げるように、
自分の中にある“才能らしき何か”に、私はふと目を向けることがある。
それは、得意と言い切れるものでもなく、
誰かに誇れるような明るさでもない。
むしろ、少しだけ息苦しく、少しだけ誇らしい。
そんな、毒にまみれた才能のことを、今日は書いてみようと思う。
この「毒にまみれた才能」という言葉は、以前の投稿で何気なく出てきた。
そのときは深く考えず、ただ言葉が落ちてきただけだったけれど、
今あらためて、その意味に静かに向き合っている。
才能は、本来なら人を助け、道を照らし、豊かさを生むものだ。
実際、スピリチュアルな視点や、未来や時代を超えたビジョンを私は感じ取ることができる。
でも、その力は“自分で自由に動かせるもの”ではない。
常に誰かの「問い」がなければ発動しない。
私の才能は、**呼ばれなければ目を覚まさない“受動的な力”**なのだ。
しかも、その問いを投げかけられる人も限られている。
言葉にならない領域に共鳴できる人は、それほど多くない。
だからこの才能は、使いたいときに使えない。
動き出したくても、静かに沈黙しているときの方が多い。
私自身でさえ、その力のスイッチを入れることは難しい。
自分の人生なのに、なぜか主導権が握れないようなジレンマがあった。
人との関わりが増えてくると、逆に自分が薄れていくような感覚もあった。
そしてスペースが空いたときにだけ、
ぽつりと誰かが現れ、また静かに去っていく。
それを繰り返していると、
「どうせまた、私の才能は役に立たない」
そんな自己否定が心に巣を作る。
営業もできない。
売り込みもうまくいかない。
スピリチュアル以外のことは驚くほどできない。
それが露呈すると、人が引いていく。
「思ったよりメンタル弱いんだね」と言われることもある。
でも、それも含めて私の“毒にまみれた才能”なのだと思う。
10年前は、ひとりで静かに過ごす日々の中で、
この才能となんとか付き合っていた。
でも今は、もっと誰かと関わっていたいと思うようになった。
それが新たな摩擦や葛藤を生むとしても、
人との共鳴の中で目を覚ます力ならば、私はそれを諦めたくない。
この先も、この才能は
うまく使える日ばかりではないと思う。
使いたくても錆びついて動かない日もある。
だけど、それでも構わない。
必要なときに、必要な人に、必要なかたちで届けばいい。
私はこの場所で、
ときどきこの毒を吐き出しながら、
静かに身を整えていようと思う。
いつでも、誰かの「問い」に応えられるように。
コメント