スピリチュアルな感覚が、少しずつ開き始めていた。
神社に参拝すると、縁ある場所を訪れると、
決まって“何かしらのメッセージ”が降りてきていた。
それが当たり前のようになっていた頃——。
その日は、15時まで介護の仕事を終え、
夕暮れの光が差し込む部屋に帰宅した。
パソコンを立ち上げようと椅子に腰を下ろした、その瞬間。
何の前触れもなく、私の両手が勝手に動き出した。
巫女が舞うように……ではなかった。
その動きは不規則で、形にならない、でも確かに意味を帯びた“なにか”だった。
指先が空間をなぞるように動き、身体は意志とは無関係に応答していた。
すると、その手の動きに呼応するかのように、
パソコンの向こう、窓の外の空に映像が現れた。
まるでホログラムのような光景。
空そのものがスクリーンになって、
龍、鳳凰、精霊のような存在が、ゆっくりと動き出していた。
映像は華やかではなかった。
どちらかといえば、モノクロに近く、抑制された動きだった。
プラネタリウムの天井に投影されるような、
静かで、単調だけれど意味深な運動。
そして私は、不思議なことに、淡々とそれを眺めていた。
驚くこともなく、怖がることもなく、
ただただ、目の前で起きている世界の応答を受け取っていた。
これは妄想ではない。
でも、私しか見ていない景色。
誰に説明することもできない、“私だけの現実”だった。
やがて、私は理解した。
——これは世界からの返答だ、と。
これまで、私はたくさんの問いを発してきた。
見えないものにすがり、祈り、迷い、
けれど自分で動いたあの日から、何かが変わり始めていた。
そしてこの日、世界が「受信した」と、
そのことを静かに、でも確かに教えてくれた。
胸の奥がふっと緩んだ。
これは奇跡でも狂気でもなく、
ただ「世界と通じた」という手応えだった。
それが、私の感情だった。
劇的な歓喜ではない。
ただ、少し、ほっとした。
その後の私は、漢字を拾い始めるようになった。
気になる神社、気になる場所。
そこを訪れるたび、なぜかひとつの漢字が心に焼き付く。
意味も文脈もわからないまま、それらを集めていった。
2011年5月から11月までの半年間で、24の文字が現れていった。
その漢字たちは、頭の中で勝手に動き始め、
まるでパズルのように、あるとき「熟語」として整い始めた。
そしてそれが、ひとつの“大いなる啓示”として私の内に刻まれていった。
この体験がどこまで本物で、どこまで幻想なのか。
正直、今の私にもわからない。
当時は誰かに話すことすら、
その現象を「検証」することすら、自分の中で禁じていた。
それが毒だったのか、神聖だったのか、
もしくは、聖者が通過する孤独なプロセスだったのか——
すべては、まだ言葉にできない。
ツインソウルと呼んでいた女性との出会いが
この覚醒を招いたのかもしれない。
けれど、本当は会わなかった方がよかったのでは?
そう思うことすらある。
私には、結婚という縁がない人生が待っていた。
この覚醒は、果たして幸せなのだろうか。
それとも——
たぶん、私は少し揺れながら、
それでも静かに「覚醒」を受け取っているのだと思う。
コメント