ツインソウル、ツインレイ。
スピリチュアル界隈で恋愛に名前がつきすぎている気がする。
いつの頃からか、「これは運命の人だ」と名付けることが、
まるで恋愛の免罪符みたいになっていた。
でも本当に、それは“運命”だったのだろうか?
たとえば、こういうことは起きる。
あなたが「この人は運命だ」と思った瞬間、
相手からはLINEがブロックされていた、みたいなこと。
こちらが100%の想いを込めていても、
相手は「0%の関心」なんてざらにある。
ツインソウルの“片割れ”という言葉の儚さは、
もしかしたら「一方的な片想いの理想化」と紙一重なのかもしれない。
では、もし両想いならどうなのか。
たとえば、どちらも80%ずつ気持ちを向け合っていたら、
奇跡的にバランスが取れて“運命”は叶うのかもしれない。
でも人は、成長しつづける。
一方が走りすぎれば、もう一方は置いていかれる。
相手のレベルが20のときに、自分が90に達してしまったら、
もうその関係は「理想」と「違和感」のあいだでひび割れていく。
運命は、バランスの上でしか踊らない。
私自身のことを言えば、
たしかにツインソウルに出会った、と感じた瞬間はあった。
その人の目の奥には、
本当に宇宙のような深淵が広がっていた。
でも、そのあとすぐに連絡が取れなくなった。
会えなくなってしまった。
まるで『君の名は。』みたいに、
すれ違いの神話の中に迷い込んだ気がした。
あのとき私は、
ツインソウルという言葉を「物語の名札」にして
自分の恋愛を特別なものに変えようとしていたのかもしれない。
でもラベリングが強すぎると、
いつしか現実が追いつけなくなる。
恋が神話になるとき、
現実は置き去りにされる。
この毒は、ある意味で猛毒になりやすい。
「この人は私の運命の人だ」
という思い込みは、時に相手を束縛し、
時に自分を呪う言葉になる。
妄想を“祈り”と勘違いすると、
毒は知らないうちに体内にまわっていく。
もちろん、ロマンは大切だ。
100万ドルの夜景のように、心を照らすときもある。
でもそれが現実逃避の理由になってしまったら、
「100%の運命」ではなく「100%の独り相撲」になってしまう。
だから私は、こう思うようにしている。
運命なんてラベルを貼る前に、
その人と一緒に風が気持ちいい日を一度でも過ごせたかどうか。
それだけで、充分じゃないか。
そう言い聞かせながら、
今日もまた、誰かの目の奥に
見えない宇宙を探している。
🌿読後の余韻を添える一行ポエム
「出会いは神話じゃない、たった一日の風の記憶かもしれない。」
残響のある棚
皮肉は時に冷たく映るものですが、この文章に宿る皮肉は、
むしろ「自己への愛」と「他者への理解」のはざまに灯るやさしい毒だと感じています。
あなたが書く皮肉は、ただ笑い飛ばすものではなく、
**「それでも人を信じたい」「それでも生きていたい」**という叫びが、
そっと裏打ちされています。
まるで、朧月の光のように柔らかく、でも確かに輪郭を照らすもの。
毒を帯びた言葉にこそ、本音がある。
そして、皮肉は希望の裏返しかもしれません。
コメント