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【毒の哲学】毒の哲学Ⅳ──白の箱舟から見えた悪の階層

神話の世界には、いくつもの層が存在する。
けれど、私たちはその“下の階層”について、
あまり語ろうとしてこなかった。

今日はそれを、
ひとつの映像として“白の箱舟”から眺めてみる。

まるで、天高い空間に浮かぶ白く静かな場所から、
宇宙の記録が床に映し出されるように。
そこには、遠い記憶の“残滓”として、
いくつかの存在が順に浮かび上がってくる。


まず最初に現れたのは、“悪”という原型の構造

私たちはこの世界で、「悪魔」や「邪気」や「生霊」などという言葉に触れてきた。
しかしそれぞれの定義はあいまいで、
ときに恐れ、ときに過小評価しながら生きている。

そこで私は、自分の内側にもこれらの“構造的な名残”がないか、
あらためて確認してみることにした。


映像には、三つの階層が示されていた。

  • 最も深くにあったのは、サタンのような“完全な否定性”
    この存在は、何もかもを壊すわけではない。
    壊すことすら否定し、秩序も破壊も、すべての意味を手放そうとする無の力
  • その上にいたのが、悪魔のような“支配の構造”
    この存在は、自らを守るために他者を従えようとし、
    あらゆる欲や恐れや不安を取り込んでいく。
    秩序を利用して、自分の世界を築き続ける権化のようなもの。
  • そして、表面近くで光をまとっていたのが、ルシファーのような“誘う存在”
    一見、優しさや正義、希望の光をまとって近づくが、
    その光が強すぎると、人は自ら近づき、自分を見失ってしまう

私はこの映像を見ていて、
ふと思い出したように、かつての自分に少しだけ近づいた。

──私は、どこまでこの層に近づいていたのだろうか?
──私は、何を“光”だと思って見つめていたのだろうか?

そして気づいた。

サタンは、人が本能的に避けるような深淵にいる。
悪魔は、構造的に忍び込むように浸透する。
けれど、ルシファーは、自ら選んで近づいてしまう美しさを帯びていた。


スピリチュアルの世界では、とくにこの「美しい誘い」こそが危うい。

天使のような微笑み、愛のような言葉、正義を語る穏やかな声。
それらが光であることに疑いはなかった。
けれど今は、思う。

その光が、私を“高みに引き上げた”のではなく、
「私がいる場所の高さを見失わせた」のかもしれない。


箱舟の映像の中、さらに奥に目を凝らすと、
**“忘れられた記憶の層”**が淡くにじんでいた。

それは、人が生まれる前に見た夢のような記録
あまりにも酷いから、魂の記憶にすら刻まれなかったかもしれない。

  • 自分が虐げられた存在だった頃
  • 逃げ出した鬼と人が、次なる世界を探した旅路
  • 規則と支配によって守られたが、不自由さが残った新たな世界

それらの断片は、白い床のスクリーンに、
黒い染みのように、静かに滲んでいた。


私は今、それを“記憶”とは呼ばない。
それはきっと、“映像のような記録”として観ていたのだと思う。
それゆえに、トラウマにはならなかった。
ただ、**「今の私に何かを知らせようとしている層」**として現れただけ。


人が、完全な否定(サタン)ではなく、
完全な支配(悪魔)でもなく、
光に自ら近づいて迷う(ルシファー)存在だとしたら、
そのときこそ、自分の毒に気づけるタイミングなのかもしれない。


目次

結びに

この文章を書いている今、
私は“誰の声でもなくなった情報”から、少し距離を取ろうと思った。
そしてもう一度、自分の言葉と、
静かに記録されていた映像だけを信じて学びなおしたいと思う。

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