「予祝という宴 ─祝福が呪術に変わるとき」
いま、スピリチュアルの世界で耳にしない日はない「予祝(よしゅく)」。
それは、“先に祝うことで、願いが叶う”という考え方。
たとえるなら、叶っていない未来のために先に乾杯するようなものです。
本来は農耕社会の神事、豊作を願う「前祝い」の文化から来たものだと言われます。
しかし、現代スピリチュアルの中で予祝は変容し、「万能の願望実現法」として独り歩きしはじめました。
◆ なぜ予祝はここまで流行ったのか?
まず背景にあるのは、「引き寄せの法則」への違和感。
個人主義的でエゴイスティックに見える引き寄せは、日本人の“空気感”と馴染まなかった。
代わりに生まれたのが、“皆で祝う”“理由はないけど嬉しい”という予祝。
これは**「ええじゃないか」的な祝祭ムード**と重なります。
特にコロナ禍で祝う機会を奪われた私たちにとっては、「祝いたい」という衝動の出口でもあったのでしょう。
◆ 予祝の“陽”の側面──心の希望の火
予祝が希望を取り戻したという人たちも多くいます。
- 「先にお祝いすることで、気持ちが前向きになった」
- 「日々の暮らしに小さな喜びが増えた」
- 「自分には夢を描く力があると気づけた」
これらの声は確かに尊いし、予祝の本質的な力でもあると思います。
◆ けれど、光が強ければ影も濃くなる
しかし、問題はそこに**「他人を巻き込む力」が強く作用しすぎたとき**です。
たとえば、ある人の願いに対して、
「あなたと結ばれる前祝いをしています」
「あなたが目覚めるように祈っています」
と一方的に行ったとしたら、どうでしょう?
それは祝福ではなく、“呪い”のように受け取られる可能性もあります。
予祝は一歩間違えば、**他者の意志を無視して現実を塗り替えようとする“呪術”**にもなりかねない。
◆ 予祝の“陰”の側面──狂信と依存の入口
予祝を“やれば叶う”と妄信してしまうと、
「叶わなかった理由は、あなたの信心が足りない」
と責め合う空気が生まれることもあります。
これはかつての宗教的集団と同じ構造。
つまり、祝福のはずが、気づけば“儀式”や“呪術”にすり替わっているのです。
◆ 解毒する視点──自己完結型の祝福へ
予祝は“自己完結型”であるなら安全です。
「私は私の願いを祝う」「叶っても叶わなくても、この瞬間に感謝して祝う」
そうした祝福は、誰の自由も奪わない。
一方で、他者や集団を巻き込んだ瞬間、
そこには意図せぬ圧力、言葉にならない暴力性が発生する可能性を含んでいることも、覚えておくべきです。
◆ 結語:祝福と呪術の境界線に言葉を置く
私は予祝という文化を否定したいわけではありません。
むしろ、このムーブメントが現代の閉塞感に風穴を開けたことは確かです。
しかし同時に、その光の影にあるリスクも、言葉によって可視化しておきたいのです。
言葉を失えば、スピリチュアルは呪術に沈みます。
だからこそ、予祝の「祝」と「呪(しゅ)」の境界線にこそ、いま言葉を置く必要がある。
それが、スピリチュアルを文化として成熟させる一歩だと、私は信じています。
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