願望には、
自分の内から湧いてくるものもあれば、
他者から受け取った祈りや期待が混ざったものもある。
他者由来の願いが、すべて悪いわけではない。
それは私たちの人生の原風景に自然と溶け込んでいる。
たとえば、
子ども時代に知らず知らず背負ってきた、親の願い。
大人になってからの、伴侶や仲間たちの願い。
そして、子どもたちの未来に託す願いさえも──
いつのまにか、私たちの“当たり前”として生きはじめる。
そのすべてが毒ではない。
他者の願いに共鳴し、動き出すことで見えてくる景色もある。
ただし、自分が何を願っていたかを見失ったままでは、
誰かの夢を追いながら、自分という存在が空洞になってしまう。
仕組まれた願いに気づかないこと。
それが今、静かに広がる“時代の毒”になっている。
流行という名の装いは、美しく、軽やかで、正しそうに見える。
CMの音楽、SNSの言葉、みんなが欲しがっているという空気。
それらは頭に入り、心に染み、
やがて無意識の“記録簿”にまで書き込まれる。
「それが無い自分」はどこか物足りなくて、
「手に入れた未来」だけが正解のように感じてしまう。
経済を動かすには、欲望の火種が必要だ。
だからこれは、社会の仕組みとして“悪”とは言い切れない。
けれど──
動かされていることに無自覚なまま、
それを“自分の願い”として信じ込んでしまうなら、
その静かな刷り込みは、じわじわと私たちを支配していく。
誰かの設計図に沿って夢を見せられている。
でもそれに気づかないほど、言葉とイメージは洗練されている。
自分の足元を問い直すことなく、
“がんばるべき自分”を演じ続けるうちに、
本当の願いが見えなくなってしまう。
願いを疑うことは、決して後ろ向きなことではない。
むしろそれは、願いの純度を高めるための静かなチューニングだ。
「この願いはどこから来たのか?」と問いかけたとき、
まるで霧が晴れるように、必要なものと不要なものが分かれ出す。
無理に叶えようとしなくても、
動かされざるを得ない願い。
それこそが、本当に生きている願いなのかもしれない。
努力したり、時間をかけたり、
ときには誰かの力を借りたりしながら、
それでも進まずにはいられない想い──
その静かな衝動こそが、魂の進行方向を指している。
そして、もし誰かの願いに関わるときがあるなら。
それは、「絆」や「義務」からではなく、共鳴から選べばいい。
その願いに、自分の魂が震えるかどうか。
それだけが、本当の応援の基準になりうる。
本当の願いは、たとえ静かでも、
その人の内側からにじみ出る“重み”を持っている。
願いは、叫ぶものではなく、響くものだ。
すり替えられた願いに生きることは、
じわじわと自分を失う導火線になる。
その火がつく前に、
願いの出どころを問い直そう。
あなたの願いは、
あなたの人生を生きるための地図であってほしい。
それは誰かに渡された未来図ではなく、
あなたの息づかいと記憶と問いかけで描かれた、柔らかな地図。
きっとその地図には、
まだ見ぬ景色と、思いがけない道が残されている。
その白地に、一歩ずつ、願いを描いていこう。
あなた自身の軌跡で、世界に線を引いていくために。
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