人はなぜ神社を訪れるのか。
ご利益を求めるため。運気を上げるため。
そのどれもが間違っているとは思いません。
実際に人が集まり、お賽銭が落ち、門前町が潤い、
神社の経済的循環も生まれます。
それでも、時に私は感じてしまうのです。
「この空間、本当に静かだろうか」と。
神社は、社殿という“器”の中だけに神様がいるのではなく、
社の上空にまで広がる、見えない大きなスクリーンのようなものだと私は捉えています。
そこには、神様の気配と、神様と私たちをつなぐ対話の場がある。
私は、社の真正面に立つのではなく、
少し離れたところから空を眺めるようにして、
「問い」を捧げます。
お願いするのではなく、どうしたらその願いに近づけるか、
あるいは、この人生に今必要なことは何か、
そんな問いを胸に、神様と交信している感覚。
この関わり方は、コーチングに似ています。
神様にスキルを教わる、
神社に“通う”というより、“学びに行く”。
私にとって神社は、ただのパワースポットではなく、
人生を再調律する場所です。
けれど、その場所にはさまざまな人が集います。
エネルギーの混在が起きやすいのも事実です。
それが悪いというより、場が揺らぎやすくなるのです。
本殿と境内、末社、配置された社の並びは、
まるで器の連なりのようで、
そこに最適な“人数”や“問いの質”が集まることで、
神社本来の振動が極まる瞬間があります。
人が集まりすぎてしまうと、
振動が雑味を帯びてしまうこともあります。
特に、願いだけを一方的に投げ込むと、
その場に必要な対話や余白が薄れていく。
神社は、願いを叶える“自動販売機”ではありません。
けれど、「問いを持ってきてくれる人」には、
時に驚くほど的確な“ヒント”を返してくれることがあります。
もちろん、どんな問いを持っていくといいのか、
それはまた別の記事で書いていきたいと思います。
ただ一つ言えるのは、
神社に何を求めるかという姿勢こそが、
その人の霊的成熟度を示すのかもしれません。
スピリチュアルグループの集まりも、
それ自体が悪いわけではありません。
共鳴が起きるなら、それもまた美しい。
ただ、そこに問いがあるかどうか。
それがその集まりを“祈り”にするか、“消費”にするかを分けるのだと思います。
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