──神様も、人間になりたがっているかもしれない
スピリチュアルに目覚めたい人が、なぜか神社に引き寄せられていく。
それは自然なことだと思う。
神社には確かに“何か”がある。
神様がいると感じる人も多いし、実際そうなのだろう。
でも、その神様はどこから来たのか?
何のためにそこにいるのか、考えたことはありますか?
私は昔から、そういうことばかり考えてきた。
とくに2012年になる少し前──
私は精神的に崩壊し、寝たきりのような時期を過ごしていた。
けれど不思議なことに、その頃、神様からのようなメッセージが次々と届いていた。
ある種の意識のゲートが、開いてしまったのだと思う。
そのなかで感じたのは、
神様たちは、思った以上に“人間の世界”に興味を持っている、ということだった。
人間の世界は、どうやら楽しそうに見えるらしい。
だから人が来ると、神様はうれしくなる。
でも、集まりすぎるとちょっと面倒になって、
ふっと姿を隠してしまうような、気まぐれさもある。
一生懸命に働く神様もいれば、手を抜く神様もいる。
高天原には無数の神々がいるけれど、
私たちが知っている名前付きの神様だけが神ではない。
もっとたくさん、名も無き神々がいる。
その中には──
- 元は人間だった存在
- 外宇宙から来た意識体
- 名前を持つことすら拒否した“無銘の神”たち
そういう存在も、たくさんいた。
このことをどう受け止めるかは人それぞれだけど、
私はこれを意識の風景としての神界として感じている。
想像や霊視というより、内側から自然に湧き上がった世界観だ。
この神々は基本的に死なない。
一度生まれたら、永遠に“神のまま”。
だからかえって、「死んで生まれ変わること」や「時間を生きること」に興味を持つ神様もいる。
人間になりたい神様も、実は少なくない。
それゆえに、人間と神様の入れ替わりが起こる。
「人間の中に神が入りたがっている」
「神の住む世界に人間を連れていきたい」
そういう動きが、現代のスピリチュアルブームの裏側に、ひそかにある。
神が人になるためには、
人間の経験を得る必要がある。
でも人間になるには、堕ちる必要がある。
だから「ルシファー」のような堕天使が登場する。
逆に、人が神になろうとすると、
その欲望が「教祖化」や「神格化」へと繋がる。
そう、新興宗教のなかに見られる教祖とは、
神になりたい人間と、人間になりたい神の“等価交換”の産物なのかもしれない。
でも、人は本当に神になりたいのだろうか?
たぶんちがう。
人は「神の視点」は欲しいけど、「神になる責任」までは望んでいない。
神は「人の感情」は味わいたいけど、「人としての不完全さ」までは受け入れられない。
この拮抗と曖昧さが、
今、異常なほど「スピリチュアルに覚醒した人」を増やしている背景なのだと思う。
覚醒したいわけではなく、
誰かの“光の一部”を取り戻したいだけの人も多い。
だけど、神も人も、それぞれに“なりきれないまま”震えている。
この世界に、完全な神も、完全な人間もいない。
スピリチュアルに覚醒する人が増えるのは、
人と神の間で生まれた未完の衝動が、言葉にならないまま交錯しているから。
では、私たちはどうすればいいのか?
──まずは、そこに“毒”があることを受け止めてみる。
もしかしたら、
神様だって毒を吐くのかもしれない。
それを知ることで初めて、
私たちは“神格化”ではない、本当の神との関係を築いていけるのかもしれない。
神社に行きたくなるのは、
そんな曖昧で不完全な神たちの気配を、
私たちのどこかが感じ取っているからなのかもしれない。
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