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【毒の根源】 神棚から落とされた夜に、私は飼い犬になったのか  ――崇められることの居心地の悪さと、捨てられる恐怖について


神棚から落とされた夜に、私は飼い犬になったのか


人との関係には、見えない壇があると思うことがある。
その壇の上に誰かを祀るとき、人は一種の信仰にも似た感情を抱く。
――「この人こそが特別だ」
――「この人にしかできないことがある」
そんな期待が、賞賛となって注がれる。

かつて、私もその壇の上に置かれたことがあった。
最初は戸惑いもあったけれど、正直、心のどこかで「これが欲しかった」とも感じていた。

自分を認めてほしかった。
誰かに必要とされて、愛されたかった。

孤独が長かった分、その光はまぶしくて、あたたかくて――
私は、舞台に上がることを拒まなかった。
むしろ、自らその舞台を望んでいたのかもしれない。

だけど、その賞賛はある日ふと、風のように消えた。
理由もなく、説明もなく、気がつけば私は壇から降ろされていた。

まるで、神棚に祀られていた木札が、ある夜ひっそり外され、しまわれるように。

果たして、私は“神”だったのだろうか。
それとも、ただ都合の良い時に引き出される“飼い犬”だったのか。

祀られているあいだは気づけなかった。
あれは私のための壇ではなく、誰かの期待や承認欲求を映す舞台装置だったのだと。

そして私は、それを必要としていた。
だからこそ、舞台が終われば、私自身も不要になったのかもしれない。

でも、私は人間だ。
犬でも、神でもない。
誰かのために役割を演じ続ける存在ではない。

今なら分かる。
賞賛は、必ずしも愛ではない。
愛されたい気持ちが強すぎると、自分を差し出してしまうことがある。

けれど、その経験が無意味だったとは思わない。
一瞬でも光を交わしたあの時間は、たしかに私の人生の一部だった。

これからは、誰かの壇の上に立つのではなく、
自分の足で、自分の場所に立ちたい。

そして、静かにこう思う。

もう、自分を祀らせることはやめよう。
私は、自分の舞台を、自分で築いていく人間でありたい。

 

今でも、誰かから「すごい」と言われると、
そのあとにやってくる冷たさを想像してしまいます。

だからもし、この記事を読んでくれた人の中に、
似たような経験をしたことがある人がいたら、伝えたい。

あなたが悪いわけじゃない。
あなたの中にある、ちゃんと愛されたかった気持ちは、本物なんです。

その気持ちを、どうか自分で否定しないで。

 

賞賛から手のひら返しへ――その切り替わりに、
どこか「一時的な自尊心の高揚」を感じてしまうことがあります。

あの夜、私はただ愛されたかっただけなのかもしれない。
神棚に祀られたのも、飼い犬のように愛でられたのも、
どこかで “人間として触れてほしい” と願った私の選択だったのだろう。

けれど、その舞台を降りる時が来た。
私を神格化する者にも、切り捨てる者にも、もう与しない。

この毒は、呪いではない。
自分を見捨てずに、ここに戻ってくるための“灯火”だったのだ。

そしてようやく、舞台裏にある「ほんとうの私」と出会えそうな気がしている

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