※この文章は、ある自己啓発セミナーへのお誘いをきっかけに揺れた内面を記録したものです。
誰かを批判したり、何かを否定したいのではなく、
「変わらなきゃ」と思い続けてきた私の、そのときの“正直な温度”を残しておきたくて書きました。
言葉にならなかった思いが、朧のままでも“在った”と感じられたらと思います。
自己啓発セミナーは、
「弱さを手放したい人たち」が集まる場所なのかもしれない。
誰もが自分の“弱さ”を語り、
そして“強さ”へと変えていこうとする。
でもふと、私は問いたくなる。
弱さをアピールすることは、本当に希望への道なのか。
それとも、新たな同調圧力の始まりなのか。
50歳を目前にした私には、
もう自分なりの哲学がある。
生きてきた年数分、
誰かの理想をすぐに「はい」と受け入れるほど、
素直ではいられない。
けれど現実は、
まだ貧しく、どこか幸せを感じられない日々もある。
その理由は、「何かの不足」だと思っていた。
でも、今なら分かる。
たぶん私は、毒にまみれた才能を抱えている。
それを光に変える方法を、まだ知らないだけだ。
15年ぶりに受けた本格的な自己啓発セミナー。
途中、他の講座も経験してきたが、
あの頃の「コミュニティ依存」が
うっすらと今にも繋がっている気がした。
紹介制の仕組み。
断れば人間関係にヒビが入り、
受ければ今度は“誰かを連れてこなければ”という空気がまとわりつく。
やがて参加者たちは、
無償で“見込み客”を集め始める。
その目は、どこかキラキラとまぶしく、でも少し怖かった。
誰かを助けたい。
そう願うその前に、
私はまだ、自分を助けきれていない。
無償の熱意が生むものは、
感動だけではない。
それは、“誰かを連れてきて当然”という強制感となり、
気づけば、被害者にも加害者にもなり得る交差点に立たされる。
同じ講座を受けていても、
なぜかそこには明確な「勝者」と「敗者」がいる。
成功者のように見える人。
静かに自滅していく人。
幸せを目指す視線は同じでも、
その土台となる人生の文脈はみな違うのだ。
だからこそ、
ひとつの正解で全員を変えようとする構造には、
私は少し疲れてしまう。
何を信じるか。
誰の声に耳を傾けるか。
そして、自分のどの部分に責任を持つのか。
それが、たぶん人生を決めていく。
私はまだ、「毒にまみれた私の才能」を
どう生かせばいいか分からない。
でも少なくとも、
それを誰かの光のためだけに使う前に、
自分自身を壊さずに抱きしめる方法を、探しているところだ。
変わらないまま、
それでも、少しずつ光に向かって。
――朧宙(おぼろそら)
コメント