洗脳を解かれたその先で──赤ん坊と捨て猫のあいだで揺れる魂たちへ**
洗脳が解けたあと、人はどうなるか。
私の経験から言えば、それは**「無垢な赤ん坊」か「警戒心しかない捨て猫」**のような状態になる。
どちらにせよ、庇護が必要だ。
だが──その庇護者こそが次の洗脳者になる可能性もある。
洗脳されていた頃、そこには「愛された」という感覚があった。
たとえ偽りの愛でも、被害者にとっては唯一のぬくもりだったこともある。
それが壊れると、人は何が善で、何が悪か、わからなくなる。
その状態では、新たな関係性を**“判断”ではなく“本能”で選んでしまう**。
つまり、また誰かの洗脳に入る準備ができてしまうのだ。
しかも今度はもっと巧妙に、もっと優しく、もっと依存深く。
■ 庇護は必要、だが「洗脳しない」だけでは足りない
よく言われる。「洗脳された人を救うには、支配しないこと」「ただ寄り添うこと」。
だが、それだけでは**“路頭に迷った捨て猫”をまた野に放つだけ**だ。
本当の支援者とは、洗脳が解けたあと、
もう一度“仮親”として人を包み込むことができる者。
そして大切なのは、「洗脳しない人」ではなく──
一時的に洗脳“も”できるが、
その人が巣立つときには確実に解いて送り出せる人。
これができない限り、洗脳は「解かれる→また別の依存に入る」のループになる。
そしてこれは悲しいけれど、
「洗脳する力もない、脱洗脳する知識もない」人が、
正義の味方ヅラをして癒しを語る世界では、被害の連鎖しか起きない。
■ 傷を癒せる人は、傷をつける力も持っている
矛盾するようだけど──
本当の癒し手とは、毒を知り、毒を扱い、毒を越えた人だ。
毒を持たない者は、毒に触れられない。
触れられないものを癒すことは、できない。
だから私は言いたい。
「洗脳できない人が、洗脳を語るな」
「癒す力があるなら、一時的に傷つける覚悟も持て」
これは、誰かを壊せという話ではない。
むしろその逆。本当に人を救うには、怖れずに“介入する覚悟”が必要だということ。
■ “一時的な洗脳”が必要なときがある
洗脳とは、意識・行動・感情・判断を“ある枠組み”でまとめること。
それを一時的にでも引き受けることで、人は回復のステージに入ることがある。
それは再びの依存ではない。
むしろ、依存を上書きし、**自由に向かうための一時的な“揺りかご”**のようなものだ。
ただしそれを提供する者は、必ず手放す覚悟を持っていなければならない。
もしそこに自我が入り、「手放せない愛」に変わった瞬間──
それはまた、新たな洗脳に変わる。
◉ 結びに:洗脳を扱う者の覚悟とは
洗脳を「悪」だと決めつけ、
脱洗脳を「正義」だと信じているうちは、
この構造の深みは見えてこない。
洗脳とは、光と闇の両方を含むエネルギー操作。
それを使うには、「傷つけることも、解毒することも、両方できる」覚悟がいる。
それができないなら──
せめて、救うふりはやめてほしい。
それがまた誰かを、見えない檻に閉じ込めるから。
無垢な赤ん坊に、再び偽の庇護を与えないために。
捨て猫を、また傷つけないために。
そして、「巣立ち」を邪魔しないために。
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