2011年、私はあるひとりの女性にもう一度、再会したいと思っていた。
その再会は、当時の私にとって「人生の中心」であり、
まるでそれが叶えば、世界そのものが変わるとさえ信じていた。
私は、その“願い”を叶えるために宇宙を創った。
それは現実ではなかったけれど、確かに「宇宙創造」は起こっていた。
私は、スピリチュアルを生業とし、仕事として動かすことで、
再会のための“世界線”に自分を運ぼうとした。
けれど、今ならわかる。
あのときの私は、“幻想の器”を中心に宇宙を創ろうとしていたのだと。
その女性と再会したいという思いは、当時の私にとっては切実で、真実のように感じられた。
でも、現実の生活はサバイバルだった。
時間もお金も余裕もなく、あらゆる不安と隣り合わせだった。
今思えば、だからこそ幻想を信じた。
信じることでしか、生き延びられないほど、過酷だったのだ。
あれは「幻想の器」だった。
けれど、幻想だったからこそ、私は動けた。
不可能に見えた現実の中で、
魂だけは可能性にしがみついていた。
だから私は、「彼女に再会するための宇宙」を創り始めた。
不思議なことに、現実には会えなかったその女性と、
テレパシーのように心で語り合える状態にはなった。
だが、現実の再会までは至らなかった。
それは、
宇宙創造の座標を“幻想の器”に合わせたことによるズレだったのだと思う。
現実と器が一致していなければ、
宇宙は“ねじれた形”で顕れる。
そして、それは
“ほとんど叶いそうで、決して叶わない”という
スピリチュアルの罠を生む。
あのときの学びは、いまの私にこう語っている。
宇宙は創れる。
けれど、器の中心が幻想であるなら、
宇宙もまた“幻想的な風景”にしかならない。
今なら、きっと再会できると思う。
彼女でなかったとしても、
同じように“魂の座標”で結ばれた、高貴な女性との再会が近づいている予感がある。
それはもう、幻想の器ではない。
いまの私の中には、
確かに育った“これから得る器”があり、
その中に彼女が訪れる空間が、ある。
この経験が私に教えてくれたことは、
「願い」が間違っていたわけではない、
ただ、“意識を据える器”が違っていたということだった。
だからこそ、
私はこれからも宇宙を創る。
もう幻想ではない、
“現実と未来が響き合う場所”で。
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