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【毒の声】沈黙という名の防衛線

※この文章は、ある自己啓発セミナーへのお誘いをきっかけに揺れた内面を記録したものです。
誰かを批判したり、何かを否定したいのではなく、
「変わらなきゃ」と思い続けてきた私の、そのときの“正直な温度”を残しておきたくて書きました。

言葉にならなかった思いが、朧のままでも“在った”と感じられたらと思います。

どうしても越えられなかった壁が、いくつもある。

なぜか、いつも「心地よい空間」を望んでしまっていた。
その理由はきっと、常にどこかに「危険」があったから。
幼い頃、逃げ場のない状況で、
黙って従うしかなかった記憶が、今も胸の奥に残っている。

声を上げることが許されなかった環境では、
“黙る”という選択だけが、
自分を守るための最終手段だった。

もしかしたら、あの沈黙は
これ以上の絶望を引き受けないための防衛線――
サバイバルのための、最後の「壁」だったのだと思う。


それから大人になって、
学校、職場、セミナーと、いくつもの「空間」を渡り歩いてきた。
どこでも私は、
“黙ること”で自分を守っていたように思う。

沈黙は時に、強がりでも演出でもなく、
“自分の奥深くを知られたくない”という、
静かな防衛本能の表れだった。

ある自己啓発セミナーでは、
「在り方」を示し、そこから成果を出せと促される。
声を上げる人が讃えられ、
行動しない者は「変われていない」と見なされる。

私は、在り方に異議を申し立てたこともあった。
でも返ってくるのは、誰にも届かない沈黙ばかりだった。

そして私は気づく。
沈黙は、ただ“逃げている”のではなく――
誰かの言葉を、黙って受け止め続けてきたという、
深い受容力の証でもあったのだと。


受け入れすぎた結果、
私はセミナーの“無敵感”に飲み込まれた。
でもその魔法が解けたとき、
何も持っていない自分に戻されたような
激しい無力感に襲われた。

その落差に、何度も心が崩れそうになった。

だから私は今、
もう一度“沈黙”を、自分のもとに取り戻している。

セミナーの余韻をかき消すように、
声を張り上げるのではなく、
ただ静かに沈黙の中に身を置く。

そこに残った感覚だけが、
ようやく“本当の私”と呼べるものかもしれない。

沈黙は、逃げでも負けでもない。

それはきっと、
絶望の手前で自分を守りぬいてきた、
静かな強さのかたちだった。

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