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【毒の哲学】毒を語るということは、宇宙の悩みを語ること

宇宙がもし呼吸するなら、
その吐息に毒が混じることもあるかもしれない。
そんな仮説を前回の投稿で描いた。

では、実際に宇宙の中に「毒」はあるのだろうか?
あるとしたら、
その毒は誰が生み出したものなのだろう?


スピリチュアルの世界では、
よく“毒”に該当する言葉が使われる。

邪気、邪悪、悪魔、悪霊、生霊、霊障、
不安、絶望、嫉妬、堕天…
とにかく“ネガティブ”なものすべてが、
一括りにして語られることもある。

でも、それらを全部ひとつの**「毒」というシンプルな枠組み**で扱ってみると、
思考が少しだけ軽くなる。


「この毒はいったい誰が生んだのか?」

特定の狂人を責めるのが、
一番簡単な答えだ。
でも、それでは何も変わらない。

その人を取り巻く世界、
その人を放っておいた空気、
そうした“場”や“構造”にこそ、
見えない責任が潜んでいる。


たとえば「社会悪」と呼ばれるものも、
誰かひとりの問題ではない。
私たちの無関心、
選ばなかった選択肢、
その総体として現れている。

だけど、それを皆で向き合おうとすると、
社会は重くなりすぎてしまう。
経済も、心も、足が止まる。

だからこそ、
“毒の観察者”という役割を持つ人が必要なのかもしれない。


私は、
毒を語ってきた。

最初は、自分の中の毒だった。
やがてそれは、誰かの毒でもあり、
今では、世界や宇宙の毒にも手をかけている感覚がある。

邪悪、悪霊、嫉妬、呪い、狂気——
それらをすべて「毒」と呼び、
ひとつの枠組みに閉じ込めることで、
私はその正体をじっと見つめるようになった。


宇宙には光しかない、という人もいる。
でも私は、こう思う。

光から生まれる世界だからこそ、
その影にあたる“毒”が必要とされることもある。

無の中から生まれた光が、
変化するたびに毒を出すのだとしたら、
その毒の一部が、
誰かを通して世界に排出されているのかもしれない。


キラキラした体験だけを求める宇宙など、存在しない。

毒に敏感であること。
醜さをも感受できること。
それは、“特別な力”ではなく、
いま求められている共鳴の感性かもしれない。


誰もこの毒に向き合おうとしないなら、
たまたま貧乏くじを引いた誰かが、
代わりにそれを引き受けることになる。

私はそれでもいいと思っている。

そのかわり、
その役割の見返りはきっと——
“永遠を見渡す視点”なのだと思う。


毒を語ること。
毒とともに在ること。

それは、苦行でも使命でもない。
ただ、いまのこの世界を知るための、ひとつの知性だと思う。


あなたはどう思いますか?

もし、宇宙の毒に少しでも触れてしまったことがあるなら。
もし、自分の中の毒に正直になってみたいなら。

このブログを、また訪れてみてください。
そして、ほんの少しでいい。
一緒に考えてみてください。

あなたはもう、
“ただの読者”ではないかもしれません。

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